映画『母さんがどんなに僕を嫌いでも』感想

いろいろレビュー

母と一緒に見に行ってきました。久々の映画レビュー。原作と映画、両方見たので比較しつつ、「母」という視点について書いていきます。

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原作との違い

ストーリーはこちら

映画「母さんがどんなに僕を嫌いでも」公式サイト
映画「母さんがどんなに僕を嫌いでも」11月16日(金)全国ロードショー

私も母もファンである歌川たいじさんの同名コミックエッセイの映画化です。情緒不安定な母から虐待を受ける少年期と、仲間との出会いに恵まれ母と向き合い人生に幸せを見出す青年期までを描いています。受けた総評すると、原作のコミックエッセイのほうが主人公の内面がより丁寧に描かれているので、原作を知っていると一瞬物足りなさを感じてしまうかもしれません。でも、同じ作品ではあるものの、原作とは違った視点で描かれている映画でした。

セクシュアリティを消した理由

歌川たいじさんのブログ「ゲイです。ほぼ夫婦です」での通り、歌川さんは男性のパートナーであるツレちゃんと暮らしていらっしゃいます。

原作でもゲイとして悩んだ過程が綴られていますが、映画ではそれが一切ありません。正直、そこは引っ掛かりがありました。歌川さん自身のセクシュアリティも苦悩から幸せを見出すまでの重要な要素となっているのになんで?という印象です。

たぶん、テーマを絞って母と子という、単純なようでとても複雑な関係だけを映画では描きたかったように思います。

母目線の映画

母と子に焦点を当てた映画。主人公たいじの語りで物語は進んでいきますが、終始主人公目線ではありません。二人の母とも言える目線が存在します。

二人の母の目線

一つは原作でも映画でも第二の母のような存在である、ばあちゃんのです。

たいじ少年の父親が経営する工場で働くばあちゃんは、血が繋がっていないのですが常にたいじ少年を心配し愛を注ぐ、唯一のたいじ少年の味方です。観客は、ばあちゃんの視点で作品の大半を見ていくので、もうたいじ少年が心配でたまらなくなるのです(ラスト知ってるのに)。ですが、同時に実の母光子の視点を感じることもありました。

吉田羊の演技

光子役の吉田羊さんがものすごく繊細な演技で見るものを「この時の母さんの気持ちがこうだったのではないか?」と導いてくれているのです。

前提として光子はめちゃめちゃひどい母親。いつも自分中心でたいじ少年に暴力やネグレクトなどを繰り返しています。それでも「この人はたいじを愛したいのではないか?」と吉田羊さんの演技を見ていて思わせられました。

息子を憎みながらも、冷徹にはなりきれない複雑な目をして見つめる演技が随所で見られて、単なるヒステリックなひどい母ではなく、現実に追い詰められ逃げ道を息子への暴力へ見出す親として映ります。光子役が吉田羊さんで本当によかったなと思いました。

息子が理解の末に得るもの

理解は気づいた方からすべし

劇中で親友のキミツが母との関係に悩むたいじ青年に話すキミツ家の家訓です。

この言葉で私が感じたのは、「気づいた方」になるまでは無理に理解しようとすべきでない、つまり理解しないままの時間も大切なのだということです。

母を理解しようとした時、たいじ青年はその「気づいた方」になるまでの過程をすでに終えているのです。悩み傷つき、時には自分のダークサイドを仲間にさらけ出すこともありました。その過程が彼を理解ができる「気づいた方」にしていきました。

そして、母を知ることは、たいじ青年が未来を獲得する旅の集大成でした。一人の青年が未来を獲得する旅を二人の母の視点から私は見ていました。

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