映画『ウィーアーリトルゾンビーズ』が語る心の在処

映画『ウィーアーリトルゾンビーズ』(以降『ゾンビーズ』)を見たのは先週の金曜日。とても複雑で、感想がとても書きにくい映画で、かなり衝撃を受けたので、一週間使って自分の中で反芻していた。 カメラワーク、素晴らしい演技、語りたい感想は色々あるけれど、「感情」「心」というテーマで感じたこと一本に絞って書いていこうと思う。 ここから先はネタバレだらけです。見ていない方はレッツリターンでお願いします。

あらすじ

バス事故、火事、自殺、殺人。それぞれ両親を亡くしたヒカリ、イシ、タケムラ、イクコの13歳の子供達が火葬場で出会う。共通点は、親が死んだのに泣けなかったこと。 4人はゾンビのような顔で冒険をはじめ、やがてバンド「リトルゾンビーズ」を組む。そのミュージックビデオがSNSでヒット。彼らは一気にスターダムへ押し上げられる。 金儲けに走る大人たち、ネットの晒し行為、クレーム。感情のないリトルゾンビーズは周囲の感情の渦に押しやられて、一気にスターから引きずり降ろされる。 が、冒険はこれだけでは終わらなかった。 4人は、ヒカリの両親が死んだバス事故の現場まで向かうのだった。

ユーモアと希望の映画

両親を亡くしてしまったのに、なぜか泣けない子供達が、心を取り戻す。それを聞いて私は、 「え、ハートフルに舵を切りすぎていないか?」と思った。 あんなにニヒリズムとブラックユーモアに満ちた『そうして私たちはプールに金魚を、』でデビューを飾った監督が!? 最後に主人公が泣く、なんてありきたりな結末になんかならないよね、と心配した。 結論を言うとそうはならなかった。疑ってごめんなさい むしろ、こんなことを思った自分が間違っていたと反省した。心の在処を探索したくなる、ユーモアと希望に満ち溢れ、矛盾した、ひねくれた、とても哲学的な映画だった。

「プー金」がきっかけ。

まずは、この映画を見た私の状態から説明していこう。私は数年前から、心のリミッターがおかしいな、と思うことが多くなった。 突然キレたり、悲しくなったり、イライラしたりしては、それを後悔する。 私が今生きているやり方はゾンビからはほど遠い。思いっきり人間である。そんな私が、両親を亡くして無感情となってしまった子供たちの映画をみたいと思ったのは、「ゾンビ」という言葉の意味を知りたくなったから。 『ゾンビーズ』は、『そうして私たちはプールに金魚を、』(以後『プー金』)でサンダンス映画祭短編部門でグランプリを獲得した、長久允監督の長編デビュー作だ(こちらもすごくいい映画だった。Vimeoで無料で見られるのでぜひ見てほしい)。 その『プー金』の中のヒロインたちのセリフにこうある。
「私たちは、生まれながらにしてゾンビっすよ」 「生まれてこのかた15年、私たちはゾンビだ」 『そうして私たちはプールに金魚を、』劇中
『プー金』でも使われているゾンビという言葉がそのまま『ゾンビーズ』の物語の主軸になっている。彼女たちのいる狭山市とリトルゾンビーズのいる世界は地続きな気がした。 ゾンビのように生きるとはどういうことだろう?

映画を語るに重要なポイント

ゲームへのオマージュ

本作は昔なつかしいRPGへのオマージュで溢れている(ファミコンをはじめとするRPGゲームをやったことがない私でも、ちゃんとついていけた。大丈夫だった)。 8bitのゲーム音楽に乗せて物語は進んでいく。ヒカリの両親が運ばれる霊柩車を空撮したシーンでもピコピコとした音が流れていて、無機質な音楽と生々しい現実のコントラストを激しく感じた。 彼らの冒険は音楽のように淡々と進んでいく。万引きをし、買取業者のトラックに乗って移動する。未成年なのにラブホテルに泊まれたり、キセルを堂々とやりのける。しまいには大人二人を痛めつけてごみ収集車を奪ってしまう。あまりにも淡々と悪事をやってのけるので、なんだか笑ってしまった。 終始、無表情な4人の子供達が、まるでドット絵のように淡々と動く。クエストしていく。そこに迷いや葛藤はないように思える。たしかに感情のないゾンビみたいだ。だが、本当にこの子たちは感情をなくしてしまったのか?

感情の根幹

両親が一度に亡くなる。親友でもなく、片方の親だけ亡くなる訳でもなく、一気に両親をなのはなぜか。それは、4人を心のクエストに送り込むためだからなのではないかと、私は思った。 13歳という微妙な年齢の子たちにとって、まだ親は全ての基盤である。それを一度に失った。でも涙は出ない。
生きてるか、死んでるか、わからない 僕らには何もない!ない!ない!ない! WE ARE LITTLE ZOMBIES歌詞
何もない。そう歌詞にあるように、彼らは一夜にして何も無くなった。本当に何もなくなった訳ではないのに、そう思わされていた。 とはいえ、4組とも両親がどこかおかしい。リトルゾンビーズが育ってしまう素地があるとおもわせるエキセントリックさで、それが物語の前半を彩っていて、とても面白かった。

欠落だらけの大人たち

そんな両親亡き後、リトルゾンビーズを試すように、中ボスクラスの欠落だらけの大人たちがでてくる。 両親の葬式で泣けないヒカリに、「感情ないの?」と問うおば。彼女は、お葬式とは泣くものだし、親を亡くした子供には優しくするものだ、という価値観で持ってヒカリと接し、それが本心でないと見え見えになっている。 リトルゾンビーズの曲に対して、「キャッチーで」云々とのたまう音楽プロデューサーも、実際のところ彼らの歌なんか聞いちゃいない。 そして、ブームに乗る大衆たち。 なんか、実話なのがエモい。 4人とも両親が死んでるなんてキャッチーじゃないか 彼らの才能はすごい そう言わんばかりに、型を押されたように感情を4人に投げつける多くの人々。彼ら彼女らの心はどこにあるのか? リトルゾンビーズを取り巻く大人たちは本当に人間なのか?むしろこっちがゾンビじゃないか。 「エモいってダサっ」とイクコが言うように、この映画に出てくる大人たちはもれなくダサい。 得体の知れない「エモい」に動かされて、自分が何を感じるのか、まるで考えていない。子供を使って商売しようとか、ドキュメンタリーの口実で残酷な質問しようとか、 まるでゾンビだ。 そんな欠落だらけの大人たちのなかを縫うように冒険していく4人が、「感情はなくなったのではなく元からどこかにあった」ことを気づかせられる。感情を取り戻すためでなく、感情の根幹に触れるためのクエストだったと気づくことが『ゾンビーズ』の意図なんだと思った。

愛も希望も元からある

物語の最終盤、おば夫婦に引き取られようとしているヒカリ。駅で見送るタケムラ、イシ、イクコは、彼が両親の死んだ事故現場に行けなかったことを気がかりだったと思い、こう言う。「今でしょ」 号令がなったように走り出した4人はキセルをやってのけ、特急列車に乗り込んだ。このときのゾンビーズは今までのクエストと違ってとても生き生きとしていた。途中歩きになっても、ごみ収集車を襲っても。しかし、ヒカリだけは心に引っかかるものがあったのか、夢の中で人生を終わらせようと、コンティニュー画面からNoを選ぶ。 夢の中でイクコたちが言う「絶望ダッサ」と。ヒカリは絶望の中に浸って本格的にゾンビになろうとしていたのだ。でもダサいものにはなれない。強制的にコンティニューはYesとされるのだ。 私自身、よく現状に絶望している人間だ。絶望を普段からファッションしていて、私すごくダサいと思った。「絶望ダッサ」は人間じゃなくてゾンビな面が自分にもあると突きつけられているようなセリフだった。

人生のセーブポイントはない

なぜか、私の記憶の中で一番引っかかっているシーンがある。 リトルゾンビーズの初ライブの前、トイレの中に捨てられたサイリウムを見て「セーブポイント」と言うシーン(私はゲームをセーブす場所は光るらしいとこの時知った)。 たしかにこのライブはセーブポイントだった。その後爆発的にリトルゾンビーズは売れ、世間に持ち上げられる。そして落とされる。 残念ながら人生にセーブポイントはないから物語は進む。一旦始まればノンストップである。両親が死んだからといっても戻せないし、急なチャンスに流され誰かに利用されることもある。 でも、心の在処さえ忘れなければ、思い出そうとすれば自然と、いくべき場所や一緒にいるべき人が付いてくる。それが映画『ウィーアーリトルゾンビーズ』に流れる哲学の一面なのだと、見てから一週間経って感じた。 余談だけど、この映画は1記事では感想が足りなさすぎるくらい、多面的で複雑だった。もう一度、スクリーンで見たくて仕方ない映画だった。

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